2012年3月9日金曜日

何を「ぶっこわす」べきなのか?ー別の仕方で思考することー | 就活ぶっこわせデモ

何を「ぶっこわす」べきなのか?ー別の仕方で思考することー | 就活ぶっこわせデモ

【あらかじめの注意】
私は話も長ければ、文章も長い。その点お許しいただきたい。ただ本気で考えたいという人には是非読んで欲しい。前提としてこの文章を通じて私は個人の自助努力の次元や「就活」の方法論は問題にしていない。また、こういう制度にすればいいと言うことも書いていない。つまり、「問題は個人のせいなのか、社会のせいなのか、何を変えたらいいのか」というレベルでは論じていない。ここでは、あくまで「何が問題となっているのか」を「就活ぶっこわせデモ」の個人的な分析から提起し、そのために私は何がしたいのかということを「主張」している。「答え」ではなく「問い」を発したいと考えている。それを考慮していただいた上で読んでもらい、そして建設的な批判をもらえればうれしく思う。

※「主張� ��カテゴリーに分類される文章は実行委員一人一人の「就活ぶっこわせデモ」に対する思いや意見である。実行委員会の総意ではないことにご注意いただきたい。

※「追記」しました!下記の「続きを読む」からご覧下さい。

【本文】
「就活ぶっこわせデモ」がここ最近センセーションを巻き起こしている。Twitterの「就活ぶっこわせデモ」アカウントには非難・罵倒・意見・賛同などたくさんのリプライが来ており、「デモ 就活」でタイムラインを検索すれば、分単位で情報が流れている。これは最初の爆発的に拡散されたツイートとニコニコニュースや2ちゃんねるに取り上げられたことが大きな要因であるようだ。

ニコニコニュース
2ちゃんねる

しかしながら、なぜたかだか数十人の学生が「就活ぶっこわせ」を掲げ、デモをすると表明しただけでこれほどセンセーショナルになるのか。実のところセンセーションを巻き起こした段階では「就活ぶっこわせデモ」に関する情報はそれほど多くなかった。にもかかわらずこれほどの反響読んだからにはその現状分析が必要である。その上で、「就活ぶっこわせ」と言ったとき、何を「ぶっこわす」べきなのか、ということについての私の意見を書いてみようと思う。

まず、多くの反応は「就活ぶっこわせデモ」というこの一言、あるいはそれを含んだ1ツイートを対象にしていたことがわかる。もちろん、情報が多くない中でそこに非難が集まるのは当然ではあるし、インターネットの「炎上」と呼ばれる現象の構造からし� �も多くの情報が必要でないことは明らかである(インターネットにおける匿名の審判性について本稿では多くを語るつもりはない)。しかし、問題はなぜ「就活」と「ぶっこわせ」、そして「デモ」という単語が「炎上」の対象となるかということだ。

面白い事実がある。「就活ぶっこわせデモ」の実行委員会は「就活ぶっこわせ」という名称以前から活動しており、単に「就活デモ」と名乗っていたときにはほとんど反応がなかったということだ。したがって、「就活デモ」の実質はさほど問題ではない。つまり、「就活ぶっこわせデモ」という名称に何らかの構造が隠されていると推察できる。

ここから二つのことが考えられる。すなわち、第一に「就活」という概念は何らかの道徳規範と強力に結びついており、またそれ� ��体規範形成の作用を持っているということだ。多くの人が持つその道徳規範が破られた場合には「社会」によって裁かれねばならないとされる。第二に、「ぶっこわせ」と「デモ」という言葉はそうした規範を逸脱する社会的な言説であり、行為であるという観念が日本社会を覆っているということだ。規範としての「就活」概念が「就活ぶっこわせ」という名称によって侵犯されたため、人々はネット空間において「社会」を形成し、逸脱者、侵犯者を制裁するために過剰に反応した。もし仮に「就活」概念が規範と無関係、あるいは重要な規範でないとするなら、それほど過剰反応する必要はないだろう。

では「就活」と結びつく道徳規範とはいかなるものであろうか。大きく分けて二つの規範が考えられる。一つには、多くの� ��が「大人」になるために通らざるを得ない社会的儀式(イニシエーション)が存在し、それを受け入れなければならないという規範である。もう一つには、「労働」とは賛美されるものであり、文句を言わずに励むことこそが美徳であるという規範だ。言い換えれば、「就活」概念は「大人」に向かう儀式プロセスとしての規範性及び、「労働は美徳である」というアイデンティティの規範性と結びついているということである。このことは「デモする暇があるなら就活しろよ」とか「そんなことせずに働け」という非難からもよくわかる。


"ガーデンブリッジが追加されます。"

また、「就活」概念そのものも規範であり、規範形成として作用するものだ。どのような規範かと言えば、どれほど提示されたモデルに自己のアイデンティティを近づけることができるかという規範である。もちろん、「就活なんて茶番だよ」と心の中で思っている人も多いだろう。しかし、この「茶番」とは「わかっていながらもやらねばならない」から「茶番」であり、かつみんなが「茶番」であることを知りつつも演じることで「茶番」は確固たる体制としての地位を得ることができるのだ。意識的にしろ、無意識的にしろ、モデルや規範に対する従順さが磨かれる。事実、「就活」を行う学生の意識はそれを終える前と後を比べると、後の方が圧倒的に「 仕事に関する諦め感」が強まるという。要は、「就活」システムの規範形成としての意義とは、「就活」を単一の個人のアイデンティティとして埋め込み、「茶番」を「茶番」として諦める身体を増産することである。

では次に、「ぶっこわせ」と「デモ」という言葉が規範を逸脱するとはどういうことか。何を意味するのか。これには「政治的想像力」の問題が絡んでくる。少し考えてみよう。

一般的にいって、確かに「ぶっこわせ」というラディカルな言葉には規範に対して破壊的に働きかける作用を持つ。だが、それは実際に物理的・制度的な何かを破壊する行為とは明確に区別される。ごく単純な推論をしてみれば、「就活をぶっこわせ!」と言ったときに、企業の説明会に角棒を持って侵入して暴れたり、あらゆる就� �の仕組みを立法権の行使によって制度的に廃止したりすることを意味しない。もっと簡単な例を持ってこよう。かつて自民党の小泉首相が「自民党をぶっこわす!」と言って党内改革に着手したが、これによって自民党はなくなっただろうか。答えは言うまでもない。要するに、「ぶっこわせ」というのは政治的・戦略的スローガンなのである(実際これだけ多くの人が関心を持ったのだからその効果は抜群であったろう)。

しかし、多くの人が「就活ぶっこわせ」と聞いたとたん、「拒否」反応を示した理由は、一つには「就活をぶっこわせ」という言葉の政治性を理解する「政治的想像力」が欠如していたことである。もう一つには、それが欠如してしまうほどに、「就活」アイデンティティが人々の思考・意識の中に強力な根� �張り巡らされているということがある。これは本来「就活ぶっこわせ」という言葉は「就活」概念への直接攻撃なのではあるが、「就活」概念がアイデンティティとして内面化されている人ほど、自分という個人への攻撃と錯覚してしまうということだ。そして攻撃された(と勘違いした)自己を防衛するために「社会」というロジックを持ち出して反撃するのである。

では「デモ」という言葉はどうか。今回の事例では「デモ」に対して「ぶっこわせ」というラディカルな言葉が結びついたことによる反応もあったが(例えば「デモは支持するけど、名前は変えた方がいいんじゃないの」といった意見)、それ以上に「デモ」それ自体に対するある種の社会的な嫌悪感も見て取れる。例えば、「デモなんてやっても意味はない、変� �らない」「デモは迷惑だ」「デモなんて恥ずかしい」等々。もっとも現代において「デモ」そのものの存在を正面から否定する人は少ないだろう。多くの人はわずかながらに受けた「民主主義教育」なるものによって「デモ」が憲法によって保障されていることは知識として了解している。

だが体験的に「デモ」を知らない、あるいはちらっと見たことがあるだけにすぎないという人が大半であろう(3.11以後徐々にその風潮は変わりつつあるが)。つまり、デモが実質的に遂行できる身体がないということだ(例えば、武器を知っていても、手にしたことがない人、訓練されてない人が戦争で十分に戦えないのと同様である)。

また、体験的に少しは知っている人も含めて、現在支配的な観念は、デモとは何かを変えるための「 手段」である、というものだ。これは正しいとも言えるし、一方で間違っているとも言える。デモを「手段」とだけ見なす観念は「デモの目的は?」「その主張内容は合理的か?」「もっと明確にすべきだ」「ちゃんと組織しろ」「代案を出せ」といった言説を生み出す。しかし、「目的」「合理的」「明確」「組織」というのはあまりに一元的な運動のとらえ方であるし、明らかに懐古的で固定的な政治思考に基づいた発想である。2011年に世界中で起きた運動(「アラブの春」「OCCUPY WALL STREET」等)をみても、「デモ=合理的な手段」という構図だけではとらえがたい。

「デモ=手段」に過ぎないという発想は、デモを真剣に捉える姿勢というよりかは、むしろデモを予防的に抑止しようとする姿勢である。先に挙げたような、一見デモのことを真面目に考え批判しているように見える言説は、実はその言説の自己イメージとは反対に、「失笑」や「冷笑」に基づいた抑圧的な言説なのである。例えば、「代替案(対案)を出せ。それができなきゃ努力不足ではないか」という人がいる。しかし、仮にそれをすべての人に当てはめたら、デモの参加者はみんな学者のように理論武装しなければいけなくなるだろう。


プラズマテレビを購入する際のピクセルがどのように重要です。

もちろん、デモが「手段」であり「大義」を持つことは前提として存在する。もちろん、「私のために反乱せよ、万人の最終的な解放はそこにかかっている」とは誰も言えない。しかし、かといって「デモには意味がない」と他者に対してシニカルになると権利もない。そこには少なくとも圧倒的な事実あるのである。すなわち、「今の状態は少なからずおかしい」という意識が存在するということだ。したがって、デモを「目的」と「手段」の二項対立図式は、一見寛容に見せかけた、抑圧的で不寛容な態度なのである。

さて、長くなってしまった。そろそろまとめよう。この文章のタイトルである最初の問い、何を「ぶっこわす」べ� ��なのか?そしてなぜデモをするのか、について私なりの意見を述べよう。

これまで述べてきたように「就活」とはある一つの就業に関する形態に特権的に与えられた名称であり、作られた規範的概念である(それを日本式便乗型産業が利用している。例:就活塾)。そしてシステムはその「概念」が人々の思考・意識の隅々にまで根を張り巡らせることによって、作動・機能する。この特権的に構築されたシステムはこれまでのところかろうじて機能してきたが、現状はそれを利用する企業(一部)や便乗型産業が利益を得るための道具と化し、一部の「超有能」人間と規格化された従順な労働者を増殖させるとともに、必然的に一定数淘汰される人間を「承認」も「保障」もないまま闇の中に放置し続けるという構造の悪循環を加� ��させている。この問題は単に大学生だけの問題というより、高校生、院生、ニート、フリーター、既卒者、非正規労働者、新入社員、若手教員、障害者、過労死するまで働かされる会社員などといった範囲まで射程に入れた全社会的な問題として出現しているのである。悪循環の中で生成されていくものは極度の「自己責任」論だけであり、一方で奪われるのは連帯と共生の他者感覚、他者とのつながりの中での自己決定権(「自己責任」と「自己決定」は全く反対のものである)である。様々な抑圧構造があったにせよ、「日本の古き良き」点さえもが「自己責任」によって侵食されているといってもいい。

こうした悪循環を別方向にずらしていくにはどうしたらよいか?思い出してみよう。システムを作動させるのは一つに思考� ��意識の中に張り巡らされた「就活」概念であると言った。だとすれば、まさに「ぶっこわす」のはこの特権化された、規範としての「就活」概念なのではないか?つまり、物理的・制度的「就活」システムの総体を変革するには、まずもってこの「就活」アイデンティティを、「就活」概念にまみれた思考を「ぶっこわす」必要があるということだ。「就活ぶっこわせデモ」の名前の意義はここにあると考える。

「就活をぶっこわす」ためのより実際的な過程は、制度的・非制度的な方法を用いた脱・構築を行い、「就活」概念を相対化、あるいは別のものへと解体することである。一言で言えば「脱・就活」の志向・思考を目指すということだ。そうした点こそ専門家や政治家、官僚はもとより、全社会的な関心を持って考えられ� ��べき事柄である。この具体例を全部列挙することなどとうていできないし(できるとしたら何も問題は起こっていない)、それをするのは本稿の目的ではないが、あえて例を挙げるとすれば、制度的なもので言えば、ギャップイヤーの設置、新卒一括採用の改善など、非制度的なもので言えば、就業者向けの自発的で実践的な労働法研究サークルの結成などがあげられよう。

ただし、常に念頭に置く必要があるのは、こうした制度・非制度の構築には運動が並行する必要があるということだ。運動なしでの制度論は「御上の改革」に過ぎず、悪循環を繰り返すだけである。議論する俎上がないままでは、意識高い学生の知的談義程度でとどまってしまうだろう。デモは少なからず人々に応答する責任を与え、議論へ向かう起動力を持� ��。だから、まずは「就活ぶっこわせ!」と叫んだらいい。そこでのつながりから制度的なものも、制度的ではない新しいものも生まれるのだから。

最後に「デモ」に関して述べておこう。ではなぜデモをするのか、それで世界は変わるのか?気を付けねばならないのは、こうした問いの建て方はそれ自体誤った結論を導く可能性がある。デモや運動は「意味がある・ない」「役に立つ・立たない」「変わる・変わらない」の二元論に簡単に還元されてしまう(まさにその思考が問題なのだ!)。だが、どこか遠くの「未来」にある理想の社会、あるいはユートピアを目指して変革の意志を持つ時代は終わった。むしろ、変革は常に、今ある「現在」を絶えず別の方向にズラしながら、拡張することによって行われると捉えた方がよい� ��その闘いの中で「自由」を「民主主義」の傾向を最も鋭くすることが「変革」に他ならない。


あなたが誰であるかを変更する方法

また、次のことも重要である。変革の対象は他者(あるいは大きな「世界」)ではない、ということだ。言い換えれば他者を変えることを運動の一義的な目的に据えてはならない。なぜなら、実際に他者が、世界が変わったかどうかなどは比較した傾向の中で把握できるだけであって、正確に計ることのできるものではないからだ。重要なのは現在の「おかしさ」からまず自己に対して働きかけ、ある既存のものへの拒否とそこからの自立/自律を促し、運動の中で実践することによって自己を変革することである。他者の変革は自己の変革の副次的、間接的作用として現れるだけである(もちろん、これは理念型である)。「自己が変わりうる」と目の当たりにしたと きから、すなわち別の思考で生きることができると感じたときから、そしてそうした自己の集合が現れるときから、変革は始まるのだ。

以上、「就活ぶっこわせデモ」の分析とそれへの私の思いを書き綴った。意見があれば建設的な批判をお願いしたい(なお、より個人的なことが聞きたい場合にはTwitter等でどうぞ。)

杉本宙矢(Twitter: @uchunohate )

早稲田大学文学部四年

↓コメントや批判を受けて「追記」しました。

追記:「『なやむ権利』ーコメントと批判に寄せてー』

【前置き】
どうも、「就活ぶっこわせデモ」実行委員会の杉本です。前に「何をぶっこわすべきなのか?ー別の仕方で思考すること」と題した文章をあげた者です。読んでいただいた皆さんありがとうございます。コメントやTwitterのリプライもいくらかいただいております。しかし、コメントの多くが、「よくわからない」というものであり、また、実行委員会の仲間にも「難しい」と言われてしまいました。私としてはあの文章を書いたことにそれほど問題性を感じてはいないのですが、ただ「わからない」という理由だけで嫌悪されるのも悲しいことだと思い、ここでやや補足的にもう一つだけ文章を載せさせていただきたいと思います。より具体的でシンプルに読みやすくしたつもりであります(私はどうにもストレートに言葉を伝えるのが� ��手なようです)。どうか、先の文章の本意をくみ取っていただくのにお役に立てれば光栄です。

【本文】
 社会がますます複雑になるにつれて、個人の「やりたいこと」は今まで以上に「当たり前」ではなくなってきたように思われる。つまり、自分が何をやりたいのかは自明ではなく、発見される必要があるということだ。大学生ならば、在学中に学業や課外活動を通じて悩みながら、自主的・自律的にそれを見つけていくことになる。

 そうした中、現状では3年生の後期に「就活」が始まる。また、「就活」への準備という意味では就活セミナーや適職検査など、入学の前後からすでにその流れが始まる傾向が強まっている。つまり、ますます「就活」期間の早期化と肥大化が起こっているのだ。それによって、学生は否応なく「就活」の存在を前提としながら在学期間を設計せざるを得ない。学生生活が「就活」によって侵食され ているのだ。例えそう考えない人がいるとしても、それは(現時点では)少数派であり、彼らもそのレールを完全に無視して考えることは難しいし、それに「就活」が定められたレールとして機能していることには変わりがない。実際のところ多くの学生が3年生の後期から一斉に「就活」をするというのが現状であろう。

 しかしながら、3年生の後半までに「やりたいこと」を見つけられるだろうか。大学生の問題として一般的なことを言えば、現状において「やりたいこと」が3年の後期までにみつかっているとは言い難い。なぜなら学生生活において学業と課外生活が本格的に始まるのは3年生以降のことであるからである。実際のところ、「やりたいこと」は卒論や卒業制作への取り組み、あるいは課外活動経験の蓄積を通じて� �々に発見されるものであろう。しかし、多くの「就活生」は卒論のテーマを決めもしないうちに、「就活」に望み、面接で「大学で勉強したこと」をしゃべらなければならない。要するに、「やりたいこと」がなんだかよくわからないまま、漠然と「就活」に臨むことになるということだ。

 「やりたいこと」がわからない・まだ見つかっていないと言っても、「就活」においては先を考えざるをえない。そのために「自己分析」などをやるわけだが、分析すべき「自己」がよくわからないままでは、いくら分析したところでたいしたものは出てこない。それでも無理矢理「自己」を見つけ出したり、「これが自己だ」と思い込んだりする。その「自己」を何とか面接官の前で振る舞う。そうして何とか強引に「就活」する。その結� �、「就活」によってゆがめられた「自己」がアイデンティティとして固定化してしまう。多くの人は「これでよかったのか」と半ば悩みつつも、仕方なしにそれを受け入れていくように見える。つまり、本来自ら主体的・自律的に発見していくはずの「自己」が、「就活」の側から作られてしまうという逆説が起こる。そうしたできた「就活アイデンティティ」は就業後に持ち越されていく。


 では就業した後、つまり働き始めた後はどのような状況になるのか。多くの「社会人=会社人」が口をそろえて言うのは「働いていると時間がない」ということだ。働くことで忙しすぎて、考える時間がほとんどない。言い換えれば、働くことに意味や意義に関して、悩んだり、疑ったりすることがほとんどできないということである。するとそのまま職業・仕事に関することが重要な価値観として固定化する。つまり、強固な「労働アイデンティティ」が形成されるということだ。とりわけ日本の場合、仕事内容ごとの「ジョブ契約」ではなく、その会社に勤めるという「帰属契約」であるため、「労働アイデンティティ」は会社への帰属意識と強く結びつき、より強固なものとして固定� ��れる。

 こうしてみると、「就活」の際に形成された「就活アイデンティティ」はそのまま「労働アイデンティティ」まで繋がっていき、会社への帰属意識と結合して、強固な価値観として個人の中に結晶化することがわかる。もともと「やりたいこと」がよくわからず、漠然とした状態で「就活」に臨んだのであるから、結果的に固定される「労働アイデンティティ」は歪んだものになりやすい。そのため、どこかズレを持ち、違和感を感じながらも、仕事に従事し続けることになる。このズレから「なぜ自分はこの仕事をやっているのか?」という疑問がその個人の中で繰り返し現れてくることになる。しかし、そこには「なやむ権利」はない。十分に考える時間のないため、漠然とした不安につきまとわれながらも、ひたすら� ��のアイデンティティの中で働き続けるしかないのだ。一度そこで形成された「労働アイデンティティ」から逃れるのは難しい。こうして「就活」という敷かれたレールが硬直化した生の考え方の源泉として機能していることが理解される。

 では「労働アイデンティティ」の強化によって萎縮させられた生の多様性を取り戻すにはどうすればいいのか。「労働アイデンティティ」の源泉は「就活」というレールにあった。だとすれば、この「就活」のレールを崩していく必要がある。「就活」のレールを崩すとはどういうことか。それは「就活」という固定化された就業のあり方を各人が見直し、相対化するとともに、「就活」が各人の「やりたいこと」の発見する過程を妨げないようにすることである。「就活」をしなきゃいけな� ��という規範的な考え方を変え、他にも様々な選択肢があることに気づくような取り組みが必要である。言い換えれば、個人の意識に根を張る「就活」という固定化された考え方を「ぶっこわす」ということである。また一方で、個人に意識が変えていくのと並行して制度的な見直しが必要となってくる。それは個人が「やりたいこと」を発見できるような状態を最大限確保することである。方向性としては在学期間と「就活」期間を分離していくということだ。具体的に言うなれば、「就活」期間をもっと遅くに設定する、さらには卒業後に「就活」という方向へシフトしていくことが求められるだろう。こうした動きが総体として既存の「就活」という固定化された概念を「ぶっこわす」ことになろう。

 最後にまとめてみよう。� ��本的な問いを端的に言うとすれば、この社会に「なやむ権利」はあるのか、あるとすればどの程度保障され得ているのか、それは十分だろうか、という問いではないか。「就活」が進むにつれて学生は「これでいいじゃないか」という諦め感を強く抱くようになるという。また、いったん就職した人が何か自分の「やりたいこと」とは違うと言って職を辞めようとすると周りからは「ぜいたくなことをいうな」といわれる。「就活」というレールの前に私たちは「なやむ権利」を奪われているのではないか。「なやむ権利」を十分に行使することができなければ私たちは闘い、挑戦する力を持つこともできない。すると「これでいいじゃないか」という思考の枠に閉ざされてしまう。しかし、社会の自明性が失われた時代。今や大企業に� �職したとしても安定が保障されるわけでもないし、ましてや幸せが保障されるわけでもない。にもかかわらず、多く「就活生」はどうしても今わずかに残された「神話」にすがろうとしてしまう。だがその前に、「やりたいこと」を見つめ直そう。そのために、「なやむ権利」にむけて闘い、閉ざされた思考の中での「就活」をもっと相対化し、その上でなやんで、多様な生のあり方に向けての道を開いていくことが大事なのではないか。「なやむ権利」を取り戻すために、まずは私が叫びたい、「就活ぶっこわせ!!」と。


【終わりに】
 やはり堅苦しくわかりにくい文章になってしまったでしょうか。もしそうでしたら、申し訳ありません。今後精進して参ります。「なやむ権利」と題して書いたこの文章、そこには「権利」とは絶えず行使されなければ失われてしまうという前提があります。社会の中で「おかしい!」という権利は保障されていますが、「おかしい!」と言い続けなければその権利はなくなったのと同然です。「なやむ権利」というのもその類いのものではないかと考えております。
 さて、現在、就活ぶっこわせデモ実行委員会では日々の会議や交流を重ね、疑問点や問題点を洗い出している最中であります。より具体的な方向性に関しては今後発表されることになるでしょう。またこのブログでは実行委員一人一人が「主張」と題して、「就活」や「就活ぶっこわせデモ」に対する思いを書き綴っています。様々な意見の食い違いがあるも、少なくとも現状に対する「おかしさ」を感じて集っているのだと思います。是非この「主張」が皆さんの考えるきっかけとなり、そしてともに声を上げてゆくことに繋がればと願っております。ではまた。

杉本宙矢(Twitter:@uchunohate)

早稲田大学文学部四年



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