ブログテーマ[外国人問題]|海馬之玄関amebaブログ
2012年現在、<北斗の拳>-「もうお前はすでに死んでいる」-状態の民主党政権ではありますが、例えば、鳩山元首相の最近の発言などを見るに、あたかも地中のマグマの如く、民主党内部では外国人地方選挙権の実現の野望は萎えてはいないようです。
永住外国人参政権実現に意欲 鳩山元首相
民主党の鳩山由紀夫元首相は【2012年1月】11日、都内のホテルで開かれた在日本大韓民国民団(民団)の新年会に出席し、民団が実現を強く求めている永住外国人への地方参政権付与について「国会議員に課せられた大きな宿題を果たさなければならない。今年こそは、という気持ちで解決していきたい」と実現に意欲を示した。民主党の江田五月元参院議長、公明党の太田昭宏前代表、共産党の志位和夫委員長、社民党の福島瑞穂党首も早期実現を訴えた。
(産経新聞・2012.1.11 21:31)
而して、民主党政権がまだ失速してはいなかった政権交代から4ヵ月ほど経過した頃、件の鳩山氏自身がまだ現役の首相であった頃、要は、民主党において外国人地方選挙権実現を目指すマグマが地表を突き破っていた頃、彼等は次に紹介するようなロジックを展開していました。
畢竟、最早、<北斗の拳>状態の民主党政権に、しかし、日本国民が、文字通り「死に馬に蹴られる」ことのないようには -もっと率直にというか有り体に言えば、「最後っ屁」を免れるためには- 勢い盛んな頃の彼等のロジックを検討しておくことは有効ではないか。なぜならば、その頃の民主党は、正に、そのような理由でもって外国人地方選挙権を実現しよう/実現できると本気で思っていたはずであり、よって、このイシューに関して今後彼等が提案してくるであろう「妥協案」も、当時のロジックという鎧を隠す衣、あるいは、恥部を隠す無花果の葉の一枚にすぎないでしょうから。
当時の新聞報道によれば、2010年2月9日に開催された都道府県議会議長会主催の会合で、外国人地方選挙権に賛成する民主、公明、共産、社民4党の議員からその賛成理由として次の2点が持ち出された由。すなわち、(A)「税金を納めていながら、地方参政権がないのは、権利と義務のバランスに欠ける」(B)「OECD加盟国で、二重国籍、地方参政権のどちらも認めていないのは日本だけだ」、と。
本稿では、後者(B)の理由、「OECD加盟国で二重国籍も外国人地方選挙権も認めていないのは日本だけだ」を専ら俎上に載せるものです。要は、前者(A)に関するコメントは割愛させていただくということ。
ちなみに、前者の(A)に関しては、常々私は「ディズニーリゾートで遊ぶには入場料を払わなければならないけれど、入場料を支払ったからといって入場者がディズニーリゾートの経営や運営に権利として参画できると考える人はそう多くないだろう」という比喩を用いてその無根拠さを指摘しています。尚、この謂わば「納税-選挙権」リンク論批判も含め、外国人選挙権および外国人管理法制を巡る憲法論に関する私見については下記拙稿をご参照いただければ嬉しいです。
フォールズチャーチのベテラン
・外国人地方選挙権を巡る憲法基礎論覚書(壱)~(九)
・「外国人地方選挙権は違憲」☆長尾一紘新説の検討
・<移民>という視座が照射する日本の魅力と危機-あるペルー女性の場合(上)(下)
◆隣の芝生-でも「貴方は貴方、私は私」
国籍取得・外国人登録等々「外国人管理」に携わっておられる実務担当者、あるいは、憲法・国籍法の研究者の方々は(外国人地方選挙権に対する賛否を離れて)、「OECD加盟国で二重国籍も外国人地方選挙権も認めていないのは日本だけだ」という主張には幾つか留保をつけたくなるのではないでしょうか。実は、諸外国でも「二重国籍」は例外的な制度であり、なにより、日本の法制度においても「二重国籍者」は現存しているからです。
キムヨナ姫の「入神の演技」が華麗に炸裂した2010年のバンクーバーオリンピック。その女子フィギュアスケート、アメリカ代表の長洲未来さんを持ち出すまでもなく、国籍取得に関して属地主義を採用する国で生まれた日本人の子は漏れなく「二重国籍者」です。
実際、2008年度の法務省推計によれば、(国籍選択が求められる22歳までの「合法組」と、22歳までに日本国籍を選択しながら他の国籍から離脱していない「違法組」を併せて)約58万人の「二重国籍者」が存在しているのです。
而して、この58万という数字は、同じく2008年度のデータで比べた場合、OECD加盟30ヵ国中、ルクセンブルク(48万)、アイスランド(32万)の人口を上回るボリュームであり、少なくとも、「日本が二重国籍を認めていない」という主張は必ずしも正確ではないことは明らかでしょう。更に、日本と他のOECD諸国、否、日本も含めOECD加盟30ヵ国のそれぞれの国内法における「二重国籍」と「外国人地方選挙権」の概念は単一ではなく、正に、百花繚乱・千紅万紫。
つまり、あるEU加盟国が他のEU加盟国の国民に対して「外国人地方選挙権」を認めている事態や、旧植民地国と宗主国の二重国籍を伝統的に認めてきたイギリスの制度、あるいは、その取得が相対的に極めて容易な日本の永住権取得制度、更には、外国人に地方選挙権が認められる条件としての永住権取得が極めて困難な韓国等々の差異を度外視して(例えば、在韓日本人永住者は2003年度で55人、他方、在日韓国・朝鮮人は特別永住者だけでも41万人!)、普通名詞の「二重国籍」「外国人地方選挙権」という用語を用いて日本と他のOECD加盟国を、否、あるOECD加盟国を他のOECD加盟国と比較しても大した意味はないのです。
而して、そのような無意味な比較作業を基盤とする「OECD加盟国で・・・認めていないのは日本だけだ」という主張もまた、鳩山首相の「友愛」なみの空虚な意味内容しか持っていないのではないでしょうか。
インドは過去60年間で何を得ています
このように幾つかの留保はつけるにしても、「OECD加盟国で・・・認めていないのは日本だけだ」という指摘は、しかし、事実でしょう。出生時の国籍取得ではない「帰化」のケースでは、日本は旧国籍の離脱を求めるているし、このことと、日本国籍を選択しながら実際には他の国籍からの離脱手続を行なわない「違法組」が存在していることは無関係ではないが別問題であろうからです。
而して、「OECD加盟国で・・・認めていないのは日本だけだ」という主張が孕んでいる問題性は、逆に、この命題の指摘が事実であることに起因する。そう私は考えます。蓋し、「この主張が事実として、外国人地方選挙権が日本でも認められるべきだ」とどうして言えるのか、と。率直に言えば、「それが何か?」ということです。
例えば、「OECD加盟国で議院内閣制も憲法裁判所も認めていないのはアメリカだけだ」「OECD加盟国で憲法9条を持っているのは日本だけだ」という命題は、事実として正しい。しかし、これらの命題が(事実と対応するという意味で)真だからと言って、アメリカは大統領制を止めるか(具体的な訴訟における司法による憲法判断とは別に、抽象的な法令審査権を持つ)憲法裁判所を創設すべきとは言えないだろうし、日本が憲法9条を廃棄すべきだとも(残念ながら)これを理由にしては言えないでしょう。
蓋し、二重国籍や外国人地方選挙権に関して、日本がどういう制度を採用するかということと他のOECD加盟諸国の傾向にはなんら論理必然の関係は存在しない。実際、他のOECD加盟諸国も自国の国益を最大にする観点から(現在の実定国際法の原則である「国籍唯一の原則」との整合性を踏まえながら)二重国籍と外国人地方選挙権に関する法制度を各々構築してきたにすぎないのですから。
ならば、外国人地方選挙権賛成派の件の主張は「隣の芝生」の類の、つまり、「貴方は貴方、私は私」という素朴な反論にも論理的には返答できない粗忽な認識であり稚拙な言説にすぎない。
と、そう私は考えています。
◆二重国籍と外国人地方選挙権との論理的関係の不在
「OECD加盟国で二重国籍も外国人地方選挙権も認めていないのは日本だけだ」という主張は「隣の芝生」的の誤謬を犯している。すなわち、例えば、「沖縄には日本にある米軍施設の7割が集中している」「在外自国民に自国の国内選挙の選挙権を認めていないのはOECD加盟国で韓国だけだ」という命題は、それ自体、何らかの特定の施策指針を一義的に演繹する<論理必然性>をなんら持つものではない。
而して、このことは、論理的必然性の欠如に起因するものの、そのこととは別のある危うさが「OECD加盟国で・・・認めていないのは日本だけだ」という命題には憑依していることを推測させるのではないか。そう私は考えます。蓋し、それは、「果たして、二重国籍と外国人地方選挙権をリンクさせることに何か論理的な意味があるのか」ということです。
たコロンブスDIS
別の観点から件の主張が孕む第二の危うさについてを敷衍します。前項の帰結を再度述べれば、
①帰化を含む外国人処遇の制度設計を巡り、時に、二律背反に陥りがちな「国の労働生産性向上 vs 社会の秩序維持」という二つの政治目的を自国に最も有利な点で均衡させるべく、②国力・資源、文化・社会統合のパフォーマンス等々、非対称性を帯びるその国の歴史的に特殊な現状を睨みつつ、③二重国籍と外国人地方選挙権に関してOECD加盟国諸国はその国独自の政策を選択している。
而して、労働生産性を向上させるべく人口を増やしたい国、逆に、自国民に「出稼ぎ労働者」として海外で外貨を稼いでもらい、最低でもそれによって自国内の「食い扶持」を少しでも減らしたいと考える国にとってはよりルーズな国籍制度が<最適解>であろうし、vice versa なの、鴨。
畢竟、国際法と憲法の観点からは、「国籍=国籍が与えられる範囲」は、(甲)誰が最終的にその個人の面倒を見るのか/責任を負うのか、(乙)その国の政治的意志の形成と決定に誰が参画でき/誰は参画させるべきではないのかという二つの軸の均衡点として定まるものです。
ならば、「OECD加盟国で・・・認めていないのは日本だけだ」という主張には、各国ともこれら(甲)(乙)を睨みながらも、自国の非対称性を踏まえた上で国益を最大にするべく国籍の範囲を定めているにすぎないという現実的な観点が欠けている。而して、私はこの欠落に「二重国籍と外国人地方選挙権をリンクさせる」危うさの病巣が潜んでいると推測しています。
蓋し、「OECD加盟国で二重国籍も外国人地方選挙権も認めていないのは日本だけだ」とう命題、一般化すれば「OECD加盟国で【X】と【Y】が存在するのは日本だけだ」という形式の命題が、社会学的に観察される事実から支持されるための【X-Y】の組み合わせはおそらく無数にあるでしょう。
例えば、「OECD加盟国で【子どもの連れ去りを禁じたハーグ条約が未批准】なのも【調査捕鯨を継続】しているのも日本だけだ」、そして、「OECD加盟国で【裁判員制度】も【銭湯】も存在するのは日本だけだ」と。而して、「ハーグ条約-調査捕鯨」の組み合わせには何かしら意味があるように見えなくもないけれど、「裁判員制度-銭湯」の組み合わせにはそう大した意味はないように見える。けれども、論理的にはこれらはすべて同型の命題であり、かつ、現実からサポートされているという点でもこれらはすべてパラレルなのです。つまり、この「OECD加盟国で・・・認めていないのは日本だけだ」という命題は、二つの事実を正しく指摘した無数にある命題の一つにすぎない。
而して、もし、「OECD加盟国で・・・認めていないのは日本だけだ」と吐露した賛成派の論者が、この命題によって「日本も二重国籍か外国人選挙権かのどちらか、あるいは、その両方を制度化すべきである」という主張を演繹できると考えているとしたら、彼等の認識には、おそらく、
(イ)外国人管理法制を巡る論点は二重国籍と外国人地方選挙権の2者から構成されている単一の問題であり、二重国籍を認めない法制が続いている現状では、せめて外国人地方選挙権は認められるべきだ
(ロ)なにより、「二重国籍や外国人選挙権は正しい制度だ」
というアプリオリな前提が憑依していると考えざるを得ないのです。けれども、(もちろん、「二重国籍」と「外国人地方選挙権」には各々異なる制度目的があることは当然の前提として、しかし、百歩というか千歩譲って、ここではそれらの二制度が「外国人管理法制」というより上位の法システムを構成するパーツであることを認めるとしても)、この(イ)(ロ)の認識は、
(イ)に関しては、「二重国籍と外国人地方選挙権」には各々独自の制度目的があるだけではなく、この組み合わせに「裁判員制度と銭湯」や「富士山と玉子ご飯」の組み合わせを超える論的な性質は存在せず、他方(ロ)に関しても、この認識は他のOECD諸国が自国と他国の非対称性を踏まえた現実的な観点から二重国籍や外国人選挙権を、「国民主権」と「国籍唯一の原則」の例外として一部採用しているという事実を看過した上で始めて成立可能な妄想にすぎない。
と、そう私は考えます。畢竟、EU域内や英連邦内を除けば、「ほっとけば人口減少に伴い産業の国際競争力低下と国力低下が必定の国」以外で、(帰化に際しての)二重国籍を認めている国は皆無と言っていい。ならば、比較法的観点のからは「外国人選挙権や二重国籍は正しい制度だ」などとは到底言えることではないのです。蓋し、「OECD加盟国で二重国籍も外国人地方選挙権も認めていないのは日本だけだ」という命題は幾つか留保を附すならば事実でしょう。しかし、それはなんら外国人地方選挙権を根拠づけるものではないということです。
畢竟、この命題が外国人地方選挙権推進の理由として神通力を帯びるのは「二重国籍や外国人選挙権は正しい制度だ」という特殊なイデオロギーを共有するグループ内部に限られる。ならば、そのような命題を都道府県議会議長会主催の会合という<神通力の射程外>の公の場で吐露した賛成派の言動は、正に、「正気?」ものの事態である。と、そう私は考えています。
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