チャールズ・ウィロビー - Wikipedia
チャールズ・アンドリュー・ウィロビー(Charles Andrew Willoughby, 1892年3月8日-1972年10月25日)はアメリカ陸軍の軍人。最終階級は少将。
ダグラス・マッカーサー将軍の情報参謀で、日本降伏後はGHQ参謀第2部(G2)部長として、戦後日本の進路に影響を与えた人物。「小ヒトラー」と呼ばれた反共主義者としても知られ「赤狩りのウイロビー」とも呼ばれた。
[編集] 第二次世界大戦までの経歴
ウィロビーは1892年3月8日にドイツハイデルベルクにてドイツ人の父(T.von Tscheppe-Weidenbach)と、アメリカ人でメリーランド州ボルチモア出身の母エマ・ウィロビー(Emma Willoughby)の間に生まれる。初め名前はドイツ語読みでAdolf Karl 「アドルフ・カール」といい、幼少はドイツ人として過ごす。地元ハイデルベルク大学卒業後にアメリカ人に帰化、母方の姓を称すようになる。
1910年にアメリカ陸軍に一兵士として入隊した。第一次世界大戦を通じて叩き上げで昇進を重ね、1941年に大佐だったウィロビーはダグラス・マッカーサーの情報参謀としてアメリカの植民地のフィリピンに赴任した。
[編集] 第二次世界大戦
1941年12月からアメリカも参戦した第二次世界大戦中の日本軍とのフィリピン攻略戦では、日本軍に敗走したマッカーサーと共にフィリピンから脱出している。1942年6月20日には連合国軍准将に昇進している。
どのグループが直接関与していた
情報を重視するマッカーサーによって連合軍翻訳通信班(ATIS)(捕虜の尋問や命令文章の翻訳を担当)、連合軍諜報局(AIB)(諜報・謀略担当)が設置されるとウィロビーは元締めとして辣腕をふるった。特に日系アメリカ人や現地民を駆使した諜報活動は日本軍の動きを悉く察知した。
1945年4月12日にはアメリカ陸軍より正式に少将に昇進した。1945年9月2日の戦艦「ミズーリ」での日本の連合国軍への降伏文書調印式にはマッカーサーの幕僚として参加している。
[編集] GHQでの活動
GHQでは参謀第2部(G2)部長として諜報・保安・検閲(特にプレスコード)を管轄した。労働組合活動を奨励し日本の民主化を推進する民政局長のコートニー・ホイットニー准将や次長のチャールズ・ケーディス大佐を敵視し、縄張り争いを繰り広げた。右翼の三浦義一、旧軍の河辺虎四郎らも使って反共工作を進めた。
極東国際軍事裁判の折、A級戦犯の容疑者は第一次裁判で裁かれた東條英機ら28名の他に22名ほどいたが、この裁判をよく思っていなかったウィロビーの釈放要求(ただし、笹川良一の釈放については慎重だったという)が通り、22名の容疑者に対する二次・三次の裁判は行われなかった。これにはアメリカの方針が180°変わり、ソ連や中華人民共和国といった共産主義国家台頭に対して日本を防波堤に使おうと考え、たとえA級戦犯といえども反共に使えそうな人物は使おうと考えた事と、一次裁判で時間がかかりすぎてイギリスが裁判続行に消極的になった事も影響している。
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判決後ウィロビーは帰国の挨拶にやってきたオランダ代表のベルト・レーリンク判事に「この裁判は史上最悪の偽善だった。こんな裁判が行われたので、息子には軍人になることを禁止するつもりだ。なぜ不信をもったかと言うと、日本がおかれていた状況と同じ状況に置かれたのなら、アメリカも日本と同様に戦争に出たに違いないと思うからだ」と、語っている。
GHQが許可した戦後初の渡米者で、日米文化振興会(現日米平和・文化交流協会)を興した笠井重治が、「有力な情報提供者」として親交があった事で知られる(袖井林二郎『マッカーサ-の二千日』)。また、A級戦犯においてウィロビーが釈放要求を出すのに慎重だったと言われている児玉誉士夫とは、その後児玉の通訳となり、「ロッキード事件」の最中に変死した福田太郎を、自著の翻訳者にするなど、児玉とも何らかの関係にあったと推測されている。
1948年には極東委員会でソ連のテレビヤンコ中将は日本海海戦の意趣返しとして戦艦「三笠」の解体・廃棄を主張したが、ウィロビーは日本の記念物を破壊して日本人の反感を買うのは避けるべきだと反論して阻止、結果「三笠」の廃棄は免れた。後にチェスター・W・ニミッツ海軍元帥が復興運動を行った関係で日本人にはこちらの方が知られているが、ウィロビーもまた「三笠」にとっては恩人といえる。
1950年の朝鮮戦争の際にウィロビーは「中国共産党軍(中国人民志願軍)は介入しない」とする報告をマッカーサーに行い、マッカーサーはこれを元にハリー・S・トルーマン大統領に対し中華人民共和国参戦の可能性を否定した(デービッド・ハルバースタム『ザ・フィフディーズ <第1部>』 新潮社より)。これが全くの誤認であったことは、後に戦場で実証されることになった。
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[編集] 晩年
GHQでの活動の他情報の専門家としてCIA設立に関与したのち1951年に退役、スペインに渡ると独裁者として知られたフランシスコ・フランコ将軍の非公式のアドバイザーになる。
1968年に引退し、妻とフロリダ州ネイプルズで引退生活を初め、1972年10月25日に死亡した。80歳。
極端な反共主義者でファシストとされ、自身ドイツ人とのハーフで旧名は「アドルフ」であったせいか、ナチス党とアドルフ・ヒトラーを好み、GHQのメンバーからは「アメリカの小ヒトラー」とも「占領軍のジョー・マッカーシー」ともあだ名された。上官のマッカーサーからも時折冗談で「わが愛するファシスト」と呼ばれていた。占領期のレッドパージが苛烈になったのも、上記のウィロビーの性格が影響しているとも言われている。
GHQ内におけるG2の影響力からもマッカーサーの重要な側近だったがことが窺えるが、ホイットニーほどは人物的な信頼を勝ち得ておらず、ホイットニーに認められていたワンノックでマッカーサーの執務室に入れる(面会の際に秘書官を通さなくていい)権限は、ウィロビーには認められていなかった。
逆コースの日本で、労働組合活動を弱体化させたことと、極東国際軍事裁判には批判的だったウィロビーの釈放要求によって不起訴になったA級戦犯には後に第56・57代内閣総理大臣になる岸信介や政財界の黒幕となった人物もいたため戦後史に多大な影響を与えている人物だが、プレスコードとレッドパージのイメージが強いせいで、現在でも日本人の印象は良くない。
マッカーサーの回想伝記『マッカーサー戦記』を執筆出版したが、翻訳担当の大井篤(旧帝国海軍大佐)からは「歴史史料としての価値はほとんど無い」と酷評された。
ウィロビーのG2がまとめた日米の人物調査ファイルは、近年の機密解除で、戦後史の研究資料として調査研究されているが、ウィロビーのおぼえがめでたくない人物に対しては貶めるための捏造された記述が多いとされている(デービッド・ハルバースタム『ザ・コールデスト・ウインター 朝鮮戦争』[1]より)。
- 『赤色スパイ団の全貌 ゾルゲ事件』福田太郎訳、東西南北社刊、1953年
- 『戦争における機動』第1巻、陸上自衛隊幹部学校訳、陸上自衛隊幹部学校刊、1956年3月
- 『マッカーサー戦記』第1、大井篤訳、時事通信社、1956年
- 『マッカーサー戦記』第2、大井篤訳、時事通信社、1956年
- 『マッカーサー戦記』第3、大井篤訳、時事通信社、1956年
- 『知られざる日本占領 ウィロビー回顧録』延禎監訳、番町書房、1973年
- 『マッカーサー戦記』上巻、大井篤訳、朝日ソノラマ、1988年6月、ISBN 4-257-17203-7
- 『マッカーサー戦記』下巻、大井篤訳、朝日ソノラマ、1988年6月、ISBN 4-257-17204-5
[編集] 参考文献等
- ^ デービッド・ハルバースタム『ザ・コールデスト・ウインター 朝鮮戦争』、山田耕介・侑平訳(上下、文藝春秋、2009年)
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