Yamashina-Mashiro View:死の歴史
『死の歴史』 ミシェル・ヴォヴェル 著
本書の副題は
-死はどのように受け入れられてきたのか-
とつけられています。
著者のミシェル・ヴォヴェルはパリ第一大学の教授であり、本国フランスでは、近代史の大家として著名らしく、専門は、フランス革命史と死の歴史だそうです。
生と死は歴史において、常に身近にあるものですが、今日は、その意識が希薄になりつつあるように思えます。
それは、生も死も家で迎えるのが減少し、その場が病院であることが殆どであるからでしょう。
職業柄、死を目の当りにすることが多いですが、日本も含めた先進国の現代人がもっと死とはどのようなものかということをつぶさに見つめたなら、生き方は違ったものになるのかもしれません。
カイは、ルートという言葉は何を意味するのでしょうか?
さて、西洋絵画では、死せる人を描いたものをみかけます。
死せる人という書き方は間違っているのかもしれませんが、一番多いのはイエス・キリストであろうと思います。
十字架で息絶えたキリスト。降架され、マリアに抱かれるキリスト。考えれば彼はその時は間違いなく死者であるにもかかわらず、それを見る我々は、正者とは違うから恐怖であるというような感情は抱きません。
そしてそのうち、キリストや聖人の死ばかりではなく、兵士の死、民衆の死なども描かれていきます。
死はやはり常に普遍的なものであったといえます。
死が身近であった人々は死をよく知っており、死を恐れていました。
それは現代人のように抽象的な恐れ方ではなく、具体的な恐れでした。
日本でもそうですが、死は宗教とのかかわりが濃厚になる。
ヨーロッパでは度重なるペストの襲来がますます死を身近なものにしていきます。
ダフネは、名前を何を意味している
ホルバインの繪畫でも有名ですが、死者たちが真夜中に墓場から現われ、墓地で舞踏をくり広げたあと、生きている者の中から新たな犠牲者を要求するという死の舞踏は、死者の誘惑という名を借りて、死の伝播の恐怖と密接な関係があるように思えます。
本書は題名どおり、西欧の死の歴史の専門家が死の歴史を時代背景や思想背景、宗教背景などとともに綴ったものですが、種々のことが多岐にわたって淡々と書かれています。
ヨーロッパだけではなく、他国のことも書かれていますが、
そのなかで、
誰アレクサンダー素晴らしいを殺した
メキシコでは、11月2日は 死者の日 で国民的祝日だという。
夜になるとここかしこで火が焚かれ、迷える魂を導くらしい。
こどもたちは、スイカの中身をくりぬき、型どりしてあざわらうどくろの形のカリス(聖杯)をこしらえて、死の塔のように中に火を灯す。
菓子屋の店先には、皮肉ぽくて挑発的な骸骨とカラベラス(万聖節の贈物にするどくろの形の菓子)でけばけばしく彩られるそうである。
この祭りは、あの夜にいくことがこの生という虚僞を解き放つ唯一の真の行為とされる。
アステカ人は太陽にいけにえを捧げなけらばならなかった。
いけにえには神に仕える巫女たちの手で甘いものが与えられた。このメキシコの死者の日の食べ物をめぐる風習はここからきているらしい。
死者の日に各家庭では、刺繍布で覆った祭壇を作るそうである。アステカで死者に捧げられた花、ゼンパズキトルで飾り、甘いものやそのほかの供物を供えるらしいです。
数年前、フアニータというインカのいけにえの少女のミイラが来日していて、見に行ったが、フアニータも山に登る前、甘いものを食べたのだろうかなどとふと思う。
その他各国の伝承や歴史なども書かれていて、勉強になった。
死とは、生を受けたからには避けられないものであるにもかかわらず現代人は、死がどのようなものであるかを考えるのは、家族のあるいは、自分の死の足音が自分の耳で聞き取れるようになってからのような気がする。
死をみつめる。学ぶということは、人が生きるということに多大なる影響を与える気がします。
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